東日本大震災から10年
もう大震災から10年になる。
当時ぼくは32歳だったか。
まだ子供がいなかった。新婚生活まっさかり。計画停電をアパート暮らしで経験した。
連日テレビで東北の惨状が伝えられた。
友達もたくさん東北にいる。その友達の友達が行方不明になっているということで、探し当てる手伝いをしたこともあった。
日本二周もしていたので、知り合いも多いし、自分で歩いた場所、連れて行ってもらった場所など思い出の場所が破壊されていた。
胸が痛む。そんな風ではなく、ぼくの心はどちらかというと病んでいった。
ちょうど仕事は連休があった時なので、家にずっといるし、テレビは目に入るし、フェイスブックなどネット上では様々な情報が飛び交っていて、否が応でも情報漬けになった。
原発が爆発し、放射能問題が立ち上がると、今度はそれについてのさまざまな情報が飛び交った。
フェイスブックでは激しい意見が寄せられていた。
「おまえはどっちの人間なんだ。」
と煽るような意見も。だまっていることすら罪悪感を感じさせるように、他人から身近な人が発信していて、勝手に精神的に追い詰められていく。
友達だった人が遠くなっていったり。それは向こうも思っていたかもしれない。でもそうやって災害でぼくらは引き裂かれていいのか?
自分自身も、
「おまえはだまってじっとしているのか?」
と自分に問いかける。
かけつけたくても仕事に穴をあけられないのでかけつけることもできない。阪神大震災のとき、
「次にこういうことがあったら絶対ボランティアに行く」
そう決めたつもりだったのに、結局行けなかった。
何もできない。
放射能については何が正しいのかもわからない。
音楽なんて意味ない。歌うことなってやってられない。何を歌えばいいの?おれなんかが歌って何になるの?
そんなふうにどんどん自分が追い込まれていった。
実際ボランティアに行くにしても、日帰りや1,2泊程度でできるわけではなかった。
だからどうすることもできなかったんだけど、それは全くなぐさめにならず。だって、今まさに知っているだれかが苦しんでいるかもしれないのだから。
8年後
ぼくは初めて東北大震災に関連するボランティアに参加した。ボランティア以外では震災の翌年、現地にいる友達に会いに行ってはいた。
でも、ボランティアができなかった。正直怖かったんだと思う。こんな自分ができるのだろうかと。
でも惨状は目にしておかなくてはならないと思って、被災地を車でめぐった。
気仙沼のある友達には「見に来るだけならこないでほしい」と言われた。
その通りだと思う。
それも分かっていた。でも、何もしないわけにもいかなかったし、逆に岩沼の友達のお父さんには、
「来てくれて、見に来てくれてありがとう!たくさん目にして、東京の人たちに伝えてくれ。」
と、とても感謝された。
どれも本当だと思う。正解なんて逆にないと思う。自分が足を動かすこと。耳を傾けること。
それしかない。
昔、当時の彼女と訪れた宮城の海岸の美しい防風林が無残にもなくなっていたり。
崖の下は全てかっさらわれ、崖の上は無傷。天国と地獄。生きのこった方々の「死んでしまった 生きてしまった」という声がぼくの心の中に響いていた。
生き延びて幸せ!なんていえない。
友達のお母さんもなくなっていた。外部の者が出向いて何かかける言葉なんてない。ただ一緒にいるだけ、ただ聞くというだけ。
そして8年後。念願かなって初めてボランティアをした。正直言って遅かったかもしれない。
時間がかかったのは自分に子供ができて、余り身動きができなくなったからというのが大きいと思う。
でもやらないよりはやったほうがいい。思いは絶対消さずに、粘り強く持っていた方がいい。
そうやってきた。
8年もたてばさすがに物理的なボランティアは需要がほとんどなく、ぼくは放射能問題でまだまだ救いの手がいる福島に行った。
でも、行ってよかった。
まだ自分が必要とされていた。手助けにいったんじゃなくて、これは自分が救われに行っているんだった。
ぼく自身はいくらか救われた。でも、地元の方々の心の傷は表には表れないけど、深く癒えずに残っているんだと思う。
この写真の額は南相馬のボランティアベースに飾ってあったもの。
LIFE GOES ON
自責の念からなかなか逃れられずに何年も過ごしていた。
ある時テレビでスチールパンという楽器で有名なトリニダード・ドバコが特集されているのを見た。
トリニダード・ドバコでは学校にスチールパンがあって、子供たちが普通に習って習得していくほど、ありふれたものだ。
日本の学校でリコーダーを習うようなものか。
なので彼らの演奏はめちゃくちゃレベルが高い。その中でも有名なバンドがあり、そのバンドがテレビで特集されていた。
取材におとずれたのは、震災にあった日本のミュージシャンで、そのミュージシャンの方は震災後自分の活動に疑問を持ち続けていたという立場からそのバンドにインタビューしていた。
トリニダード・ドバコは実は治安がいい国ではない。
バンドが練習していると、少し先で銃撃戦が始まるというような状況なのだ。
そこで知人が亡くなるということも珍しくなく、トリニダード・ドバコの人々は死ととなり合わせ、悲しみを背負って生活しているということ。
インタビューにバンドのメンバーはこう答えた。
「悲しいよ。でも、人生は続くんだ。ずっと悲しんでいるわけにはいかない。だから演奏するんだ。それが生きるってことだ。Life goes on。」
ぼくは、
「そうか。人生は続くんだ。音楽をやっていいんだ。笑ってもいいんだ。」
そう思って、すごく楽になった。
突然奪わないで
でも、それでも腑に落ちないことがあった。
それは、だからといって東北の人々に「元気出そうよ。人生は続くよ。」と言えるのか?と。
ぼくは言えないと思う。
ある時ふと分かったことがある。それは、「突然大切なものを奪わないで!」ということだ。
メメントモリという言葉があるけど、ぼくはぼくなりに「今死ぬならどうする?何を後悔する?」というように思うようにしてきた。
本当は人間だれしもいつ死ぬかということはわからないもの。
それは50年後かもしれないけど、1秒先かもしれない。
それは自分かもしれないし、親しい誰かかもしれない。
だから死はいつもとなりにあるはず。
もっと言えば、死に方だって選べない。病気かもしれない。事故かもしれない。殺人かもしれない。自殺かもしれない。
災害かもしれない。
じゃあだからと言って、
「人は必ず死ぬものさ。震災で誰かを失ったとしても、どうせいつか死ぬはずのことだったんだよ。」
そんなこと言えるわけないし、そう思ってるなら腐ってる。
じゃあ何が違うのか。
それは、大切なものを突然奪われたら、心の整理ができてなくてとてもつらいということなんだと気づいた。
ぼくが失ったとても大きなものと言えば、祖父母や飼い犬、そして最近では自分の実家が5年前に壊されたこと。
ぼくはそれさえも胸がうずく。
自分が育った家がなくなる。思い出がなくなる。宝物が亡くなる。
それがある日突然前触れもなく、奪われたら?しかもそれが家ではなく人だったら?
ぼくは耐えられそうもない。
そう考えたときに、災害で大切な人や家などを失った方々の胸の痛みが一気に押し寄せてきた。
人の大切なものを突然うばっちゃいけない。
人間ていうのは、徐々にそれを受け入れていく時間が必要なんだよ。
病気でなくなるならまだその準備がある。どこかで折り合いがつけられる日が来る。
でも突然奪われたら・・・
実は大震災だけではない
そしてそこに気づいた先には、突然命が奪われるということは、大震災だけじゃないなということにも気づいた。
大型台風で命や家を奪われた方々も多いだろう。我が家も庭まで浸水した。
実は大きなニュースにならなくても今までにも台風で川があふれて被害にあっているというニュースはたびたび目にしていた。
でも、それは大震災ほどの規模でないにしろ、当事者の方々にとっては同じような大きさの心の傷なのではないかと思ったのだ。
大型台風ではなくても、ほんの数名の被害であっても、その人たちの心に起きていることは同じなんじゃないか。
災害じゃなくても、我が子が自殺した。誰かに殺された。事故で突然亡くなった。全部同じくらい大きなことなんじゃないか。
生きのこった人たちの心の傷は同じなんじゃないか。
そう思うに至った。
そして震災10年。もう10年なのか。それともまだ10年なのか。
一つ言えることは、東北の方々の心の傷は癒えていないということ。
そしてぼくを含め、被害を受けていない人々はまだまだやれることがあるということ。耳を傾ければ聞こえてくる声があるということ。
聞こうとする耳と動こうとする足があれば。
今年はまた福島に行けるかな。