今週のお題「本棚の中身」
観念するとは悟ること
なんだかはずかしくないですか?自分の本棚見せるの。
どんな本を読んでいるかは、ある意味「その人はどんな人なのか」ということを表しちゃいますよね。
まあでも「眺めてみよう、本棚」ですから、眺めてみます。
ぼくのこの写真の本棚は読み終えた本を置く場所です。まだ読んでいないのはほんの1割くらいです。
もう一つデスク近くにあるのはまだ読んでいない本用の本棚で、そっちは、30~40冊くらいあります。
読んでしまった本はどんどん処分するという人もいると思いますが、ぼくはわりと残しておく方です。
全部残すわけじゃないですよ。これでも結構処分してきました。特に奥さんの目が厳しく、なるべく物を増やしたくない人なので、最低限の本だけ残しておくようにしています。
どんな本をどんな理由で残すのか
一度読んだ本を二回以上読むことがないのなら、残す必要はないですよね。
単純にただ手放せないということなら、どんどん本が増えていくし収納場所が大変です。
ぼくが本を残す理由は
・もう一回読みたい
・いつか参照する可能性がある
・息子や娘が将来読むと役立つかもしれない
・ただ捨てられない
です。
実際に読み直すことや参照したいことはあるのか
多くはないですがあります。
この前ふと思い出したことがあって、「観念」という言葉について考えていたんですけど、その「観念」から「根切り」というのを思い出したんですね。
「根切り」というのは抵抗心の根っこを切ることを言うのですが、ぼくは暴れ馬を手なずけたことがあって、そのことをブログで書いている前後に思い出しました。
「ああ、『根切り』っていうのを本で前読んだなあ。確か猿回しの村崎太郎さんのお話の中に出てきたなあ。『青春漂流』という本だったよなあ。」
とふと多摩川を走っている時に思い出したんです。
「青春漂流」は先日亡くなられた立花隆さんが書かれた本で、青春の挫折の中で自己を確立し職業についていった若者11人のドキュメントで、絶対将来息子に読ませたいと思っています。
さて、この根切りというのが教育や調教においてすごく示唆に富んでいるから大事だなとぼくは思っています。
具体的にはどういうことかというと、(ここからはつまり残していた本を参照する真骨頂なわけですが)、猿回しでは猿に芸をしこませるために非常に苦労するらしいです。
いや、当然苦労はするでしょうが、猿の方もなかなか言うことをきこうとはしないし、命令通りにするということに対して徹底的に抵抗するらしいです。
それに対して仕込む方は一日何千回と同じ動作を強制的にさせていくそうなのですが、1000回目に1回くらいは自発的にやってくれるそうです。
そしてその時に大いに褒めてあげるそうですが、かといってそれが続くわけでなく、また抵抗をする。
そんなことを延々やっているうちに、自主的にやるのが、1000回に1回→500回に1回→300回に1回→100回に1回→20回に1回→10回に1回となってきます。
これでそのままいけるんじゃないかと思いますよね。
ちがうみたいです。
ここから「根切り」が始まるんです。
ここからはほめずに、できない時にしかるんですね。
叱ると言ってもただ叱るのではなく、殴ったりムチで叩いたりし、遊びじゃなくて真剣なんだということを分からせる。
もう半殺しになるくらいやらないとダメな時もあるそうです。
それほど真剣にやって、猿がやるっきゃないのだと分かったとき、いままでの抵抗が嘘だったかのようになくなって、命令すれば素直に従うようになる。
この抵抗心の根っこを切ることを「根切り」と言い、これは猿回しの秘伝で、なかなか見られないそうです。
※引用・参照「青春漂流」立花隆
ぼくも暴れ馬を調教したとき、走るに走らせ観念させてからは、落ち着いて素直に乗らせてくれました。
観念という言葉の意味
ぼくはこの「観念」という言葉って深いなあと思ったんですよ。
観念はあきらめるという意味がありますが、なんで「観」という字を使うのかなあと。
それで調べてみたところ観念は仏教用語であり、「観想の念仏」の略であり、瞑想法の一つで、瞑想をして真理を得るというというような意味のようです。
あきらめるという意味は、真理を会得して悟りを得る=「覚悟する」という意味から転じたそうです。
人間も雑念が多い状態だと人生落ち着かず、あっちへ行ったりこっちへいったり、上がったり下がったり、荒々しくなったり委縮したりします。
雑念が消え、真理が見えてくると人は落ち着いてくるものだと考えると、「観念」という言葉がなるほどなあと思えて来たんですよね。
「若い時はやんちゃだったけど、大人になって丸くなる」ということはよく言われますよね。
あれですよね。
さんざん悪いことしたけど、世の中に出ていく過程で己を知ったり、世の中の厳しさを知ったり、親のありがたさを知ったり、本当の自分の理解しくれる人、厳しくても徹底的に自分に向き合ってくれる人に出会ったり、または大失恋して自分の小ささを知ったりして、アクが抜けたように落ち着く。
それと「根切り」や「観念」て繋がっているなと思います。
「あきらめさせる」の危険な面
ただ、今回「観念」について考えていてふと思ったんですが、この根切りって相手が動物だからできることであり、人間に対しては気を付けないといけないなと思ったんです。
反抗期の若者と大人という関係なら、「はむかう若者」と「真剣に向き合う大人」という構図で成り立ってもいいとは思いますが、支配者と奴隷という関係だと最悪ですよね。
虐待する大人と子供という関係でも言えると思いますが、「もう抵抗しても無駄だ」とあきらめた場合、支配者に対して無抵抗になるというのは危険な状態です。
ときおりそういう報道などを耳にしますが、それほど「根切り」というのは真理でもあると思います。
また近年は動物愛護という考え方が広まってきているので、猿回しやサーカスなどでもし暴力的な動物の調教が行われているのなら、果たしてそれが妥当なことなのかというのは、議論がはじまるかもしれません。
でも少なくともぼくが思うのは、そういった芸によってぼくたちは楽しませてもらってきているのだし、動物を調教する方々は真剣にその動物たちと向き合っていて、また人間と同じように大切に愛し、生きるも死ぬもお互い様という状況で生活しているということです。
今後状況は変わってくるかもしれませんが、定まらない相手に対して真剣に、徹底的に向き合うということ自体はなくなってはいけないと思います。
おしまい
written by SEGE