自己肯定感を改善する②【成功体験を積ませてもよくならない】
おはようございます。SEGEです。 「自己肯定感を改善する①」のつづきです。
そもそも日本人の自己肯定感が低いそうです。
例えばこんな感じです。
これは重大な問題です。
なので国を挙げて自己肯定感を高めようとしているのは悪いことではありません。
ではどうしたら高められるのか。
よく聞くのが「成功体験を積ませる」とか「ほめる」とかですね。
でも、それは間違っています。
それでは決して自己肯定感は根本的にはよくなりません。
「成功体験」とか「ほめる」とかという考えの背景には、「何かができることがよい」という考えがあるからです。
それのどこがいけないのか。
それは、そういった考えの裏を返せば「できないことはだめだ」ということと同じだからです。
「ほめる」という行為は、ほめる側の基準になりがちだから
ぼく自身が自己肯定感がかなり低かったのですが、そういう自覚があった人にとっては、
「ほめられても全然うれしくない」
「成功体験なんて続かない」
「どうしてもできないことがある」
という壁があります。
「ほめられてうれしくないなんて、なんてひどいやつだ。」
と思うでしょう。
この感覚が分からずに、ぼくに対して怒りが湧いてくるのなら、ここからの話は理解できないと思います。
でも、そういう人がだれか身近な人の自己肯定感を奪っているとぼくは思っています。
さて、ほめられたことは、それは確かにありがたくいただかなければならない言葉です。
もちろんうれしいこともありますけど、うれしくないほめ言葉もあるわけです。
なぜかというと、ほめられたことをそのまま受け入れるということは、ほめる側の基準を受け入れるということだからです。
ほめる側と受け手とでずれていると、「わかってくれてない!」という気持ちが湧き上がってきます。
例えば、「いい服着てるね。」「いい顔しているね。」と言われたとして、そればかり言ってくる人に対して、「あなたは外見だけで評価してくるけど、おれの内面は全然みてくれてないじゃないか!」と怒りさえわいてきます。
いや、相手が他人ならあまり気にならないんですけど、それが親とかだと、
「親なのにぼくの心を理解してくれない。」
という切実な問題になってきます。
成功体験もそうです。
「~くん、すごいね。できたね。」
それが積み重なると、
「あなたはおれのできることだけしか見ていないのか。おれの能力しか見ていないのか。」
となってきます。
「おれが感じていること、考えていること、悩んでいることを分かってくれないのか。」
と。
こういうことが親子間で積み重なるとそれは愛着障害ともなってきます。家族の関係にひびが入っていきます。
親は愛情を注いでいると思っても、受けての子供は全くその真逆で、「愛されていない」と思って育ちます。
ぼくらは完璧ではない
ぼくらは完璧ではありません。人間は完璧ではありません。
それは苦しいほど、死にたいほどくやしいことですが、逆にそれが人間のよさでもあります。
ぼくらは能力や見た目だけではなく、自分の心そのものを一番大切に思っているはずです。
だからこう思いませんか?
「ぼくの心を理解してくれ。ぼくの能力や見た目なんかじゃなく。」
と。
いや、成功体験を積むことやほめることそれ自体が悪いわけではないですが、その根底に相手を根本的に理解しているか、認め、受け入れているのかということが必要です。
成功体験をつませることのみに重点を置けば、失敗をおそれるようになります。できない自分を責めるようになります。
そういう基準で生きるようになると、そのうち、自分が自分に厳しくなり、自滅していきます。
もちろん、できるようになるための努力をし続けてうまくいく場合もありますし、でも逆に戦いに疲れ果ててしまう場合もあります。
いや、あきらめずに努力していくことは大切です。力を身につけていくことも大切です。
そういうことが大事な時期もあります。それにできるにこしたことはないです。能力がないとできない仕事には、能力が必要です。
でも根底には、「それが人間の価値のすべてではない」ということがないといけません。
できないことを理由に、その人の仕事を否定しても、その人の価値を否定してはいけません。
最低の自分が受け入れられていることが自己肯定感につながる
ちょっと極端な例として仏教を例にします。仏教とは何か知りたいという方はここの項目がすごく参考になりますよ。
ブッダ(仏)の生き方は一つの究極的な生き方です。
ブッダは生産性を放棄しました。物を持たない、改善しない。更新しない。
つまり社会で生きていくための物や機会を完全に捨てるということです。だから誰かに依存しないと生きていけない。
一言でいえば一般社会から見れば「ダメ人間」ですね。
そして仏教は裏を返せば依存する相手として一般社会の人がいるということを前提としています。どっちかが正しいかではなく、共存です。
要するに仏教は普通の生き方は当然認めていて、でも社会で生きていけなくなった人が救われるには、こういう道があるよ、「みんなの真理だから従え」と強制されるものではなく、自分で選んでいいよということです。
だから社会全体を変えるというよりも、社会から外されてしまった人、病や貧しさで苦しんでいる人、社会的弱者、そういった人々を救済するために作られています。
そして仏の道を歩む人は、本当に大切なことは地位や名誉や財産や能力ではなく、人として善の道を歩むこととして修業します。それは社会から助けてもらう存在としても必要なことです。
そのために欲を捨てて修行します。欲を捨てるとは苦悩のもとになっている自分の煩悩を消すということです。
修行が進むと、自分と世界は一つのものであり、自分に何もなくても愛されている存在だと悟ることができます。
その段階から自らの俗世間で生きていたことを振り返れば、いかに小さなことにこだわっていきていたのかと思えることでしょう。
つまり「ダメ人間」だと思っていた自分は、「そんなことなかった。おれはおれでこのままでも大切な存在だったんだ。」と思えるのです。
これが究極的な自己肯定感です。
さて「ダメ人間」ですが、だれでも少なからず「ダメ人間」の部分を持っているはずです。
手に入らないこと、できないこと、たくさんあります。そして社会から求められる水準に満たないことで、自分に自分が納得いかないことで苦しみます。
でも、何かを手に入れたり、よくしていくことでは自己肯定感は得られません。それは人間の存在自体に価値を与えるものではないからです。
自己肯定感を根本からよくしていくには、
「ぼくは無条件に愛されているんだ」
「ぼくは全面的に認められているんだ」
「できない自分、だめな自分さえも、受け入れてくれる人がいるんだ」
と、本人が思えることが大切です。
キリスト教の有名な神父様に「ドン・ボスコ」というかたがいらっしゃいます。
その方の言葉でぼくが大好きなのは、
「愛するだけでは足りません。子どもたちが、自分たちは愛されているとわからなければなりません」
という言葉です。
この言葉にであったとき、まさにそうだと思ったものです。
ほめるときにほめる側の基準になっていてはいけないのは、そういうことです。そういうのは愛のお仕着せと言います。
それは本当の愛ではありません。
もしもぼくらが「自分は愛されているんだ」と心の底から思うことができれば、ぼくらの心は満たされます。
みんながこのことに気づけば、ぼくは世界からほとんどの悲劇はなくなると思っています。
そして、何かの基準に満たなければ愛されないということではなく、人は無条件に愛されている存在だ、という体験、実感が、自己肯定感には必要です。
むしろ失敗が必要だとも考えてみよう
心が病んでしまう人の多くは、自分のだめさを受け入れ切れていません。
どこかでだれかのせいにしていたり、あまえていたり、自分は悪くない、自分だってやってるから認めてほしいと思っていたりします。
それで内面に相反する自分の思いがうずまき病んでいきます。
例えば、
「おれはだめだ」「おれのせいじゃない、あいつのせいだ」とか、
「おれはできる」「おれはだめなやつだ」とか。
生い立ちが難しい人はこういうことが多いです。
だからむしろ徹底的に失敗するということが大切になってきます。
それでぐうの音も出なくなった時、
「おれはだめな人間だったんだ。」
とやって心から認められるようになります。
その葛藤と、崩壊と再生を経て、
「どうしようもない自分でもいいんだ。」
「ダメは自分でもいいんだ。」
「こんな自分でも、自分で自分のこと愛していいんだ。」
「ぼくは、よくならなくても愛されているんだ。」
という境地に立つことができます。
これはすごく重い例ですが、普段から人をみるときに、「成功させよう」という視点ではなく、「失敗してもいい」という視点でみていくことが大切です。
そういう温かいまなざしが、相手に「自分は愛されいたんだ」と気づかせることにつながっていきます。
宗教は価値があるし真理があるが、宗教が必要なわけではない
キリスト教はこの無条件の「愛」と人を愛している「神」が全面かつ中心にある宗教で、仏教は「愛」という言葉は使いませんし、神という存在は前提にしていないのですが、人が自分をよしとすることができるという点において、同じだと思っています。
学べば学ぶほど、この2つの宗教は同じことを言っています。
そういう観点からすると、古くからある宗教とはやはり人間と宇宙の本質をついていると最近感じています。
いろいろな宗教がありますが、何が本質をついた宗教かということを考えるとき、みなさんも参考にしてください。
少し深い話になりましたが、決して宗教が必ず必要だということではありません。
ぼくらが自己肯定感を議論するときに、「能力や見た目や地位や名誉や財産」などを条件に人を認めているところはないかということです。
親が子を愛するということは当然のようでいて、簡単ではありませんが、ほとんどの親は我が子を愛しています。
でもそこに「条件」を入れてはいけません。
あくまでもその条件とは「今ここの社会で生きていくためのものに過ぎない」ということであり、古今東西の不変の価値ではないということです。
また人はあなたの所有物ではありません。あなたの基準で人を強制してもその基準は普遍的ではありません。
「成功体験を積ませる」、「ほめる」ということは、あくまでも社会で必要な力を身につかせるための方策の一つにすぎず、またそれさえ「今ここでしか通用しない」ものかもしれません。
だからたとえそれができなくても、人としての価値は尊く変わらないということを忘れてはいけません。
ドン・ボスコの言葉をもう一度のせます。
「愛するだけでは足りません。子どもたちが、自分たちは愛されているとわからなければなりません」
相手が 「愛されている」と思えなければ意味がないということを大切にしていきましょう。
おしまい
ご拝読ありがとうございました。