自分でなおす!物も体も心も!

素人が何でも自分で直す・治す記録。日常で壊れる物、痛む体、悪い癖、物も体も心もなおす小ネタから専門的なことまで。直らない時もあるけど。それも含めてぜひご自分の生活に活かしてください。written by SEGE

743gの娘は3か月早く生まれの低体重児、NICUで育った

今週のお題「3月3日はひな祭り」

 

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743gの娘は3か月早く生まれの低体重児、NICUで育った

我が家の娘は現在5歳です。2月4日生まれでまさに立春の子。そして早産だったのでまさにひな祭りでお祝いしたい子。ひな飾りは立春をスタートに飾るものです。

 

今週のお題にぴったりですね。

 

743gと聞くだけでみなさんかなり驚かれるかと思います。ふつうは2000g後半とか3000g以上ですよね。

 

本当にやばかったです。

 

でも2018年には268gの男の子が生まれたというニュースがありました。743gの我が家が聞いても信じられない大きさです。

 

でも健やかに成長したと報道されていました。

 

読者さんの中にはもしかしたら似たような境遇の方がいるかもしれませんね。ご存じかもしれませんが、早く生まれてしまうといろいろな障害が懸念されてしまいます。

 

それは子だけでなく母もです。

 

我が家はありがたいことに現在後遺症もなく、かなり健康に育っていたます。しいて言えば身長が小さいことと、歯が2本合体して生えているのがあるくらいです。

 

癒合歯(ゆごうし)というようですが、低体重だからなるというものでもないそうです。

 

母親も無事でした。ではどのように娘は生まれてきたのでしょうか。

 

それはある日突然

 

職場に妻から電話がかかってきた。

 

「SEGEさん、奥様から電話がきてます。」

 

(え?奥さんから?珍しいな。嫌な予感しかしない。)

 

「もしもし?」

「あのね、今〇〇病院にいるんだけど、救急車に運ばれて。今日車運転してたら具合が悪くなって、家までなんとかたどりついたんだけど、もう倒れちゃって。そこで自分で救急車呼んで。」

「まじで?!自分で呼んだの?がんばったね。」

(それで体調とかはどうなってるの?あと、息子は?)

「〇〇(息子)は?」

「それで、〇〇は一緒にいて、救急車にも一緒に乗って今横にいる。それで血圧が200くらいあって今寝てるんだけど、このままだと私も危ないからすぐにでも産まないといけないかもしれなくて。受け入れてくれる病院を探してもらってる。」

「分かった。じゃあ、いますぐ行くから。」

 

ぼくは職場をすぐに早退して、妻が運ばれたかかりつけの駅前の産婦人科専門病院に向かった。

 

(それにしても自分で救急車呼ぶなんで根性だな。よくがんばった。呼べなかったら危なかったということだよな。)

 

病院に着いた。ベッドで妻が休んでいる。見た感じ何ともないが、血圧が高すぎて危ない状態だ。

 

「定期健診ではそんなに悪くなかったんだけど、たしかに前回は血圧が少し高かったんだよね。」

 

と妻。妊娠高血圧症。初産で多いらしいがうちは2人目。お腹に子供がいる子供を出さないと母体の命にもかかわる。

 

かといって予定日より3か月も早く、産んだとて胎児が正常に産まれ、育ってくれるか保証はない。

 

そして出産したらそのままNICU(新生児集中治療室)に子供は連れていかれ保育器で育てられる。

 

NICUがある病院は多くはない。ここで問題があった。NICUがある近くの杏林病院に空きがないのだ。

 

「問い合わせていますが現在杏林には空きがなく、あとは成育医療研究センターも候補ですが、今のところ連絡がとれていません。今空きが分かっているのは旗の台の昭和大学病院です。」

 

(遠いな。)

 

「できれば今後通われることも考えると昭和大よりも近い成育がいいかと思うんですが。」

 

と、お医者さんも我々のことを考えてくださって言ってくださった。でも、ずっと待っているわけにはいかない。

 

「このまま待っているのも危険なので、昭和大に向かいます。成育の方面に向かいながら、もし空きが確認できたら成育に行きますが、空きがなければそのまま昭和大に行きます。よろしいですか?」

 

救急の方がおっしゃった。そうするしかない。なるようになるしかない。

 

妻は再び救急車に乗り、ぼくは見送って一旦家に帰り、しばらく入院となる妻の今後の身支度をして車で昭和大へ向かう。結局成育は空いていなかった。

 

家に帰る車の中で息子に聞いた。きっと怖かったに違いない。

 

「母ちゃんと救急車乗ったんでしょ?どうだった?」

 

「かっこよかった。」

 

「あ、、、そっか。かっこよかったよねー。」

 

3歳の息子っていうのはこういうもんか。息子は近所の姉宅に預けてぼくは昭和大へ向かった。

 

昭和大学病院。初めて聞いた名前だな。旗の台にあるのか。旗の台は友達が住んでて飲み会に行ったことがあるけど、まさかこういう縁で来ることになるとは。

 

電車だとどうやって行くのかな。またあとで調べよう。確か東急線の駅だったな。

 

しかし、この先どうなるんだろう。まさかうちにこういうことが起きるとは。まったく考えてもなかった。

 

友達の奥さんが出産を期に亡くなってしまったことがあったけど、うちもその覚悟が必要だな。赤ちゃんはあきらめがつくけど、むしろ奥さんの方が・・・嫌だな。)

 

車内でいろいろなことが頭をめぐる。いくら考えてもしかたない。できることをするしかない。あとは祈るしかない。

 

病院に着いた。妻は先に到着して個室のベッドの上にいた。明日の朝の具合で出産するかどうか判断するという。

 

胎盤のところで炎症が起きていて、そこで流れが滞って血圧も高くなっているし、栄養が胎児に行かない状態になっているという。この状態が変わらなければ出産しないと胎児は死ぬ。

 

妻は今とても心ぼそいに違いない。不安で不安でしかたないだろう。少しでも一緒にいてあげよう。

 

考えてみればお腹に子供がいながら息子の子育てをし、旦那は仕事に追われて夜も遅いし土日も仕事を持ち帰っている。こうなったのはおれにも責任があるな。申し訳ない。

 

出産と入院とお見舞い通い

 

翌日、出産が決まった。もちろん帝王切開だ。出産の危険性を知らされ、いろいろな書類に署名させられる。

 

例えば母体の脳内出血とか、胎児に障害が残る確率が高いこととか。特に呼吸器がまだ未完成な時期の出産になる。視覚の障害の可能性もあるし、奇形があるかもしれないし、不安は尽きない。

 

覚悟を決めるしかない。

 

手術は、成功した。母体も、胎児も無事に産まれた。743gの女の子。

 

しかし、妻の入院は続く。体がやけにむくんでいるのだ。普段の2倍くらいの体になり、お腹がぽこんと膨れている。

 

血圧は依然として高く、危険な状態であることに変わりはないという。

 

(まじか。全然安心できないな。)

 

そして娘は今NICUの透明な保育器の中に入れられているという。NICUは限られた人しか入れない。たとえ家族といえども、一度に一人まで。しかも子供は入れない。

 

荷物もカメラ以外持ち込めない。入口に面会者用のロッカーもある。

 

菌が入ると胎児の命に関わるからだ。だから入口にはアルコールが置いてあり、入室退室時刻と面会者の名前を記録する紙が置いてある。

 

 

娘を見に行った。エレベーターがなかなか来ない。昭和大のNICUは上階にあるので必ずエレベーターを使う。

 

その後毎回のように使わせてもらったが、これがけっこう混んでてなかなか来ないのだ。毎日だとけっこうイライラする。

 

ここだけの話だが、ある時エレベーター待ちをしていると看護師さんが「車いすマークのボタンを押すと早く来ますよ」と教えてくれた。

 

もちろんNICUにの子供がいる父親とわかって教えてくれたのだ。

 

娘は両手におさまるんじゃないかというぐらい小さい。真っ赤な赤ちゃん。

 

今、彼女はものすごく戦っているんだろう。がんばれ。

 

妻が娘を初めて見たのは翌日のことだった。

 

娘のNICU生活と、ぼくの病院通いが始まった。

 

ぼくは仕事が終わると毎日電車で旗の台に通った。妻のお見舞いと娘のお見舞い。そして娘の名前の候補を妻に相談するのもあった。

 

なにせ3か月も早く生まれたので全く考えていなかったのだ。

 

仕事柄なかなか定時で帰れる仕事ではないけど、毎日のように少し早退させてもらった。

 

電車に乗っている時間がもったいないので、ちょうど気になっていた「キングダム」を大人借り(まとめてレンタル)して読み始めた。

 

運よく経由地の溝の口にツタヤがあったのだ。まとめて借りると割引になる。

 

「キングダム」だけでなく「GIANT KILLING」も借りたし、そうやって気持ちのバランスを保っていたのもあるかもしれない。

 

また、そんなだから家のことはできないし息子のお世話をしている余裕はぼくにはない。

 

新潟から妻のお母さんに来ていただいて、アパートにぼくと、息子と義母の3人暮らしが始まっていた。

 

ぼくの母は近くにいるが、仕事もしているし、体も強くない。息子の面倒を見てもらったら母の体がもたなくなる。

 

しかも当時、おばが認知症になりはじめ、実家は改築のために荷物の整理や引っ越しの段取りをしていた。

 

今思うとよく乗り越えたなと我ながら思う。

 

そして息子はまだ3歳なのに、母親に会えない日々を過ごしていたが、一切泣き言を言わなかった。毎日じっとこらえていたんだと思う。

 

そのことを考えるたびにぼくは胸を痛くしていた。

 

娘の名前はあと4日で出生届の締め切りというところでようやく決まった。梅の咲く時期に生まれたので梅にちなんだ名前にした。

 

妻の容体は日に日によくなり、1か月後くらいに退院ができた。

 

でも娘はまだNICUだ。

 

転院、そしてその後

 

妻の退院後も数週間は義母にいていただいた。まだ主婦業をいつも通りにするには過酷な体だった。

 

本当にありがたい。

 

母体にも後遺症が残ることがあり、その後1年は経過観察として定期的に検査していた。

 

また、息子が入園の時でもあり、4月には入園式があった。妻はがんばって付き添っていた。いろいろな感情を抱いた入園式だったことだろう。

 

娘はというと依然として昭和大のNICUだったから、妻と自分とで分担して見に行くことになった。

 

そしてあるとき転院の薦めがあった。

 

「娘さんの成育も落ち着いてきたし、杏林に空きができたようですがどうしますか?」

 

「ぜひお願いします。」

 

なにせ杏林なら車で20分くらいで行けてしまう。しかも職場も近い。絶対そっちの方がいい。

 

昭和大学の看護師さんたちはとてもよくしてくださった。むしろこのまま昭和大に居続けたいと思うほどだった。

 

けど、杏林もきっとそうに違いない。杏林に転院することに決めた。

 

杏林に移るとぼくは仕事のあと自転車で娘の様子を見に行った。キングダムもジャイキリも全部読み終えていた。

 

そして娘は母乳が飲めるようになっていた。でもこの場合直接飲ませることができない。

 

どうするかというと、母乳を入れるパックを渡され、母親がしぼった乳をそこに入れて冷凍し、NICUに預けるのだ。

 

預けるのはぼくでもいいので何度も届けに行った。

 

5月ごろ、娘は無事退院した。

 

そして今娘は5歳。生まれたばかりのころ、保育器の中で足をバタバタさせていたけど、やっぱり元気な子だ。強い子だ。

 

1年後、昭和大で開かれたNICUを出たご家庭の集まりに参加させていただいたことがある。

 

その中にはお子さんが小学生や中学生になっていて、まだ後遺症がある人がいたり、うちよりももっと大変な状態で生まれてきた子供もいたりして、「我が家は恵まれていたんだな」と思ったもの。

 

娘は少し斜視があるが、それくらいなんてことないと思える。

 

そしてこの娘の誕生を機に、我が家は家族の結束が強くなった。苦難を一緒に乗り越えて絆が深まったのだと思う。

 

神様に感謝したい。いや、お雛様に感謝したい。

 

おしまい

 

written by SEGE