今週のお題「この支配からの卒業」
ぼくを救ってくれた言葉「私と一緒に卒業しよう」
もはや大学にいる意味なんて感じなく、ぼくは大学を辞めようと思っていた。
法学部に入ったものの、それがぼくの本当に進みたい道ではなかったことがすぐに分かった。
「もう一度受験して医学部行く」とか、「工芸の道へ進む」とかほざいて英単語本を買ったりしたこともあった。
高校までの閉塞的な生活ではなくなり、バイトで稼ぎまくっては毎日のように飲み歩いて遊びまくっていた。
サークルでは代表を務めていた。
しかも存続の危機になるくらい人数が減ったときに引き継いだもんだから3年生の時はサークルを立て直すことに時間もお金も費やして単位がやばくなった。
そんな感じだったし、法律関係に進む気なんてさらさらなく、何か別のことをしたかったら大学にいる意味なんてなくなっていた。
それに中退している有名人だって大勢いる。
がんばって4年生で単位をしっかりとることにどれほどの意味があるのか。それよりも新しいことを始めたほうがいい。
そんな風に思っていた。
学校という支配
そもそもぼくは中3の時に、
「高校は義務教育じゃないから行かない。やりたいことがないのに行くなんておかしい」
と言い出して、家でも学校でも騒ぎになった。
「人の人生がなんで人生よりも狭い学校という環境に強制され束縛されなければならないのか」
という思いが、ぼくの中には10代からずっとあった。
学校が行かなくてもいいものなら納得できるけど、学校に行かないという選択肢を持たせない今のシステムに怒りを覚えていた。
なんで生き方を強制されなきゃいけないの?可能性を広げるとかいって実は可能性をせばめている。価値観を強制している。
だから尾崎豊さんの「卒業」という歌の「この支配からの卒業」という言葉は、ぼくなりによく理解できた。
結果として、ぼくはこのブログでも触れているけど、就職活動といえば昔の恩師に思いを伝えにいったくらいで、それがきっかけで卒業後にフリーターになって音楽を始めた。
その後音楽の道へ踏み切れ、放浪の旅に出られたのは、結局は大学4年生を送り卒業ができたからだと今では思える。
なぜ中退を踏みとどまったのか
ではなぜ踏みとどまれたのか。
当時ぼくはファミマの夜勤をやっていた。そこでバイト仲間だった女の子と仲良くなり、飲み仲間になっていた。
お互い彼氏や彼女がいたし、つきあってはいなかったけど、ぼくは「かわいい子だなあ」と思っていた。
その子は服飾の専門学校に通う1つ下の女の子だった。
専門学校は3年制だから、卒業がぼくと同じ年になる。ぼくはその子と飲むたびに熱く今の思いや将来について語っていて、その中で「おれ、大学辞めようかな。」と話したのだ。
その時、彼女はぼくに、
「だめだよ。卒業しよう。私と一緒に卒業しよう。」
と言ったのだ。
当時のぼくに、ぼくの友達、彼女、先輩、親以外のだれ一人としてそんな風に言ってくれる人はいなかった。
ぼくはうれしかった。心からぼくのことを心配してくれて卒業しようよと、しかも「私といっしょに卒業しようよ」と言ってくれている。
親が言う「将来のために卒業しなさい。後で後悔するから。社会に出たら役に立つから。」という言葉とは全く違う。
ぼくの心にあたたかくささった。
そしてぼくは心に決めた。「卒業しよう」と。
でも現実、3年生のときに落とした単位は致命的だった。卒業するためには一つも落とせない状況になっていた。
でも、ぼくはがんばった。ちゃんと4年生で卒業できたのだ。
今なら思う。あのとき辞めなくてよかったと。それは、中退する道だってあったのだけど、もし中退していたらぼくは後悔していたと思う。
それは親が言ってたような、社会に出たときに不利になるからという意味ではない。
どこか中退に酔っていたところや、やれたのにやらなかったとか、中退するまでの理由や次の行動がはっきりしていたわけではなかったということだ。
入れてくれた親の思いや、進めてくれた高校の先生たちの思いを踏みにじってまで中退するほどのものがぼくにはなかったと思う。
もしあのまま中退していたら不義理を果たしたと思っている。うしろめたい思いを抱えたまま今でも生きているだろう。
ぼくはその後就職せずに歌と放浪の生活に入るわけだけれども、うしろめたい思いを抱くことなく、晴れてフリーターになれた。
ちゃんと「支配から卒業」したのだ。
中退を踏みとどまらせてくれたあの子にとても感謝している。
その子は、8年後ぼくの奥さんになった。
おしまい
written by SEGE