スポーツはほしいものをくれない
スポーツで結果を残し成功するする人は1割以下です。
勝ちたい。活躍したい。うまく
なりたい。強くなりたい。チームで団結したい。
それがかなう人が自分を含めてまわりにいますか?
いたらすごいですし、そこそこすごくてもテレビ出るくらいになるのは、ほんの一握りです。
だからスポーツはほしいものをくれません。
もしも、
「勝ちたい。活躍したい。うまくなりたい。強くなりたい。チームで団結したい。」
そういう理由で成功したいということであれば、それは多くの人にとって絶対に手に入らないものです。
でも何を隠そう、ぼくはスポーツが大好きです。
得意だし、40過ぎた今も体を動かしていないと欲求不満になります。
なので「くれたもの」ということではなく、今現在もスポーツが「くれている」ものはあります。
では、「くれたもの」は本当になかったのかというと、やっぱりたくさんあるんです。
矛盾していますか?
いえ、「勝ちたい。活躍したい。うまくなりたい。強くなりたい。チームで団結したい。」というものは何も得られませんでした。
そうではなく、
「勝てない。活躍できない。うまくなれない。強くなれない。チームが団結できない。」
ということを通して、スポーツはたくさんのことを与えてくれるのです。
スポーツと言えば多くの人が通る中高の部活動ですね。スポーツが全て部活で語れるものではありませんが、多くの人がそこでスポーツを経験するわけです。
ぼくは、野球部とバレーボール部に所属していました。
野球部では膝がオスグッド病になり、1年で辞めてしまい、その後の5年間はバレーボール部に入りました。
野球をやめて落ち込んでいたぼくは、スポーツはやっていたいけど熱をかけなくてよさそうだなという理由と、兄が入っていたという理由とで、今まで興味を持ったことのないバレーボール部に入ったのです。
ところが高校に入ると2年生の時に推薦でキャプテンに選ばれキャプテンになってしまいます。
この高校バレー部での数年間でぼくは、
・部員に弾劾裁判にかけられる
・監督が見に来ないで練習はぼくに丸投げ
・弾劾裁判にかけられたぼくに対して「自分たちで解決しろ」とつきはなされる
・監督が大会の申し込みを忘れて出場できないことがあった
という様々な理不尽に出会います。
スポーツを通して、礼儀や目標へ向かうための自己マネージメントやチームの経営の仕方など、学ぶものはたくさんあります。得られるものはたくさんあります。
でもそれはスポーツでなくても得られるものですし、ここではそういったプラスの面ではなく、一見マイナスと思えること、理不尽さに目を向けたいのです。
チームメイトからの推薦でならせてもらったキャプテンでしたが、ぼくはそのチームメイトに「やめてくれ」とある日突然言われました。
ぼくのいないところでミーティングをしていたようです。
ぼくはくやしかったです。悲しかったです。
「なってくれと言った人たちがやめてくれと言うなんてことあるのか?それになんでこそこそと話し合いをするんだ?そんなのフェアじゃないし、チームじゃない。ずるい。」
でもぼくは思いました。
(確かに、厳しすぎたところがあるし、おれがいいキャプテンかと問われれば、胸を張ってそうだとは言えない。人に厳しくしているのに、自分に甘いところだってある。)
ぼくにも思うところはあったのです。
副キャプテンが監督に、「キャプテンの存続について話し合いたいので時間をください。」と申し出て、ぼくらは話し合いました。
監督はぼくに、「お前たちで話し合え。」と言いました。
それもぼくにとってはとても悔しいことでした。
(監督はこのことで何もチームに言わないのか?一人だけつるし上げられるこの構図に、先生として何も言わないのか?普段練習にあまり顔も出していないし、逃げているんじゃないか?)
ぼくはその話し合いで、
「キャプテンは思いやりがなさすぎる。」
などとあらかじめ募った意見を匿名で読み上げられます。ぼくは答えました。
「おれはキャプテンの座にどうしても留まりたいとは思わない。誰がいいのかもう一度決めなおせばいいと思う。」
そして結果どうなったかと言うと、結局ぼくがまたキャプテンになったのです。
(どうして?これって何だったんだ?)
ぼくは言いました。
「これからは勝つことを第一にせず、みんなと仲良くバレーボールをすることを第一にします。」
と。その時はそれが最良の判断であり、ぼくはぼくでおおむね納得して進みました。
ぼくは「自分てかわいそうだったでしょ?」と伝えたいわけではありません。後で振り返れば反省すべき点は多々ありました。
ただ、その時は受け入れがたくて、当時のぼくにはただの理不尽としか受け止められなかったのです。
スポーツでは理不尽なことが日常茶飯事です。けがや病気で出場できなくなることもあります。
「あの時あーすれば勝ったのに。」とか、「なんで大会に出られないんだよ。」とか、「なんでレギュラーから外されるんだ。」とか。「なんでいつもベンチなんだ。おれは存在する意味があるのか。」とか。「なんでもっと教えてくれないんだ。」とか。いくら努力しても結果が残らないことの方が多いのです。
でも、「どうしたって取り返せないこと」「どうしたって解決できないこと」、それに対してどう向き合うかということがスポーツでは非常に大事です。
そもそもプレー中に納得いかないことなんてしょっちゅう起きます。仲間に対して、相手に対して、レフェリーに対して。
ぼくは理不尽さを我慢しろとは思いません。
でもそのたびに気持ちが乱れていたら、結局いいパフォーマンスはできないし、チームスポーツならチームメイトに迷惑がかかります。
また怪我や病気で思うように練習や試合ができなくなったとき、くさっていても何もはじまりません。
理不尽さに直面したとき、どう気持ちを切り替えるか、どうプラスの面があることに気づけるかということが、スポーツでのとても大切な学びなのではないでしょうか。
水泳の池江選手が奇跡の復活をとげていますね。
病気やけがを乗り越えたスポーツ選手の例はたくさんあります。ぼくは小野選手の足のけががすごく心に残っています。
「けがをしなかったらもっと活躍できたのに。」
そう思わせる選手もけっこういますよね。小野選手は現在でもまだ活躍されていますが、ほんとうに素晴らしいです。
彼らが理不尽さにおしつぶされず、どうプラスに転じていったか。そこがすごく大切なことだと思います。
理不尽さは、スポーツをする人の誰もが突きつけられる課題です。
ぼくは人を赦す(ゆるす)ということを学びました。
当時のバレー部の監督は新任の先生で、当時とても忙しかったのです。彼は彼で大変だったのです。
大会に出られないミスを犯した監督は、それはやはりミスですが、ぼくらはそれでも別のことができるのじゃないかと考えることもできたはずです。
文句を言っても何も始まらないのです。むしろ、文句を言うことで自分自身が落ちていくのです。
さらに、監督が来なくても、自分がもっとやれることはあるはずでした。自分が変わることで、チームはもっとよくなるはずでした。
ぼくは自分の精神的な欠点に向き合うように促されていたんだと思っています。自分の欠点や人の欠点を受け入れるよう促されていたんだと思います。チームメイトに対しても、今では特にあとくされはありません。
それにぼくのことを理解してくれた仲間もいて、彼が後々間に入ってくれて卒業してからみんなで集まることもできました。
そうした感謝すべき友達もできました。
すぐその場で赦せないことはあります。
でもそれが自分自身への大切な課題になります。
スポーツがくれたもの。それは「受け入れ、赦す心」です。