自分でなおす!物も体も心も!

素人が何でも自分で直す・治す記録。日常で壊れる物、痛む体、悪い癖、物も体も心もなおす小ネタから専門的なことまで。直らない時もあるけど。それも含めてぜひご自分の生活に活かしてください。written by SEGE

大人になるために必要なこと

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

f:id:SEGE:20200912133440p:plain

 

大人になるために必要なこと

何をもって大人とするか、それはいろいろとありますよね。

 

一人暮らしをしたとき。

就職したとき。

初任給を親に収めたとき。

結婚したとき。

親になった時。

自分の心の問題におりありがついたとき。

例えば恨んでいた人のことをゆるせるようになったときとか。

 

ぼくはやはり大人になるとは精神的な問題だと思います。それは、自分の心の中の大きな問題が片付いたときです。

 

自分が精神的に飛躍したタイミングはいくつかありますが、まずはぼく自身が「大人にならなきゃ」と思ったときのことです。

 

覚悟は人を変える

あれは20代後半のときのことでした。20代後半と言えば同級生の結婚ラッシュ第1波が来る頃。第2波は30代前半に来ました。

 

それで、大学の同級生の一人が目白の椿山荘という立派な式場で披露宴を挙げました。

 

当時ぼくは放浪歌うたいを終え、その後の道に悩み果てて、今の仕事に就くための資格を取るために勉強していました。

  

すでに同級生は就職数年目です。それに比べてぼくは言うなればフリーター。資格を取りに行っているとはいっても、その年して何やってんの?というところです。

 

それに実際まだ心にふんぎりがついていなくて、本当はまだ音楽に未練があるのか、免許取ったらそのまま就職して100%そこに注力できる、とは言いきれていない感じでした。

 

そんな中、披露宴におよばれし、お祝いにかけつけました。それが披露宴に参加する初めてのことではなかったですが、なんだか気持ちがそわそわします。

 

おそらく歌うたいで旅人なんてしてたもので、たいがいは破天荒な式やゆるい感じの式だったり、同級生という同じステータスではなかったりで、それまではあまり自分の位置を意識しなかったからかもしれません。

 

でも今回は同級生だし、自分と友達との比較をいやがおうにもしてしまう状況でした。それにみんな社会人になっていて、こうした場にも慣れているように見える。

 

また、自分はそもそも大学時代はこの仲間たちとは同じ語学クラスの仲間で、そのクラスでもわりとまとめ役だったので、なんだか余計にみんなとのギャップを感じました。

 

会場で親族の方などにお会いしたらどうやって挨拶すればいいか。それさえもよくわからなくてどぎまぎしてしまう。

 

そうじゃなくてもその場にいるだけでなんだか「自分は遅れている」と感じて、すごく一人で恥ずかしい思いを抱いていました。

 

大学時代えらそうなこと言ってたおれよりも、今となりで「おめでとうございます。」などとそつなく挨拶している同級生を見て、「やばい」と思ったのです。

 

「おれ、悩んでいる場合じゃない。おれは遅れている。基本的な礼節さえ身についていないでいる。おれ、働こう。大人になろう。」

 

そう思ったのです。

 

いや、礼節があること自体が即大人というわけじゃないです。でもぼくはそもそも自分に年齢相応の自信がないことに気づいたのです。

 

そしてぼくはもう未練がましいことは心から取り去り、「潔く就職しよう」と決心し、音楽とかほかのことはどうでもいいや、新しい仕事だけに集中しようと覚悟をきめたのです。

 

そして翌年には就職し、今その仕事について15年目です。あの時決心してよかったと本当に思っています。

 

不思議なもので人の心というものは覚悟を決めると激変します。実は体も変わります。ぼくは覚悟は細胞レベルで化学反応が起きていると思っています。

 

心もすっきり、頭もすっきり、体の不調もなくなりました。実は歌声もよくなりました。

 

このあたりのことについては パニック障害を治す【決心をする】①  や パニック障害を治す【決心をする】②  を読んでください。

 

何をするべきか、何をしたいか。何が自分に向いているか。そういうことを頭で考えても実は答えはありません。

 

 「自分は遅れている、こうしちゃいられない。」ということは頭で導き出せるものでも、ネットで調べて出てくるものでもありません。

 

心と体で感じるものです。それを気づかせてくれた友達に感謝したいと思いますし、同級生に尊敬の念など持っていなかったぼくは、友達に感心し、謙虚にもなれました。

 

その時のぼくには社会に示せるものがなかったんです。あったとしてもぼく自身がそれをほこれるような自尊心がありませんでした。

 

ただし、その時点ですでにぼくには大人になる準備ができていました。そうでなくては腹を決めて、覚悟を決めて就職しようとは思えなかったのです。

 

ではどんな準備だったか。ここが大事です。

 

やりたいことをやりつくせ、心の問題を片付けろ

そもそもぼくは大学の時に就職活動をせずに、歌の活動を始め、旅に出ました。見方によっては、というか大方の一般的な見方では遠回りです。

 

その時点でちゃんと働いていればよかったじゃないかと思う方もいますよね。

 

でも違います。

 

例えば小学生の息子が宿題をリビングでやるとします。その横で妹がテレビを見ています。その番組は息子の大好きな番組です。

 

そんな場合、息子は宿題に集中できるでしょうか。

 

できないですよね。息子が宿題をやる気をもって主体的にやろうとしていたとしても、それとは関係なしに、どうしてもその番組を見てしまっても無理はないですよね。

 

その息子に対して、「宿題をやれ!」と強要できますか?

 

しないですよね。解決するには、その番組を見させてから宿題をやらせるか、テレビを消すかですよね。または妹に違う場所で見させるか。いや、それでも気になりますよね。

 

これが人間の心理です。わかっていても、気になるものがあればやるべきことに集中できません。

 

人生に置き換えたときに、もしもあなたの中にやりたいことがたくさんあったなら、それらをやらないで切り捨てて一つのことに注力できるでしょうか。

 

あとでできることならそうやって折り合いをつけられますが、今しかできないということがあるはずです。

 

または、いろいろな問題が片付いていないのに、落ち着いてやるべきことに集中できるでしょうか。

 

できません。できたとしても、心は満たされないまま進んでいるはずです。本来やるべきことに集中しきれていないはずです。

 

ぼくはそれが精神的に子供の状態だと思っています。

 

やりたいことがたくさんある人、抱えている問題が多い人、問題が大きな人ほど、それを無視して進むことは困難になります。

 

だから、若いときはやんちゃだったけど大人になって落ち着いたということが起きるわけです。めちゃめちゃとがっていた人が、大人になるともはや自分のことはもうどうでもよくて、丸くなって利他的になるなんてことよくありますよね。

 

それとか、心に傷がある人、親子関係、家庭環境に問題を抱えている人はそれを解決しないとなかなか前に進めません。

 

ぼくはやりたいこともたくさんあったし、親子関係にも問題がありました。

 

ぼくはやりたくてもやれていなかったことをとにかくかなえていきました。音楽を始める。旅をする。日本一周をする。などなど。そんなこと働いてからではできません。

 

そしてやりつくして、何もなくなってしまったのです。歌はそれなりに反響はあって、ファンになってくれる方が少なからずいました。

 

でも、そのあとの道がぼくにはなかったんです。むしろ、音楽以外にもやりたいことがある。ちゃんと働くということもしたい。彼女と結婚して、不安をなくしてあげたい。親になってみたい。

 

そんな思いが湧き上がってきたのです。

 

そこでめちゃくちゃ葛藤しました。音楽を続けるべきか、ちゃんと働くべきか。精神がやや崩壊しました。でもそれでよかったです。それは通らなくてはならない道でした。

 

パニック障害になったのはこの時です。

 

それよりもやりたいことをやらないまま進んでいた方がもっと危険でした。

 

「社会の一員として働きたい。結婚したい。子供も育ててみたい。」

 

こうした思いは、歌を始めたり旅をしたりした後でなければ絶対に湧き上がってこなかった思いです。

 

だからぼくは思います。まずは自分のやりたいことをやりつくせと。

 

多くの大人や親は決まってこう言います。

「おまえのやりたいことは働いてから考えろ。それからでも遅くはない。まずは社会に出ろ。そうじゃないと手遅れになる。」

 

嘘です。

 

自分のやりたいことができないまま、ぼくが自分に嘘をついて突き進んでいたら、ぼくは絶対に手遅れになっていたと思います。

 

ぼくは頭が心がおかしくなって、まちがいなく誰かを傷つけていたと確信がありました。

 

物事には順番があります。

 

まず自分の心が満たされなければ人は前に前進できません。

 

だからやりたいことをやらず、自分の心に蓋をして生きていたら、絶対にあとで壊れるか、死んだように生きるかです。

 

そして自分の心の問題を解決しなければ、絶対に心の平安は訪れません。

 

ぼくは函館から札幌に向かうヒッチハイクの車の中で運転してくださった方とこんな会話をしたのを覚えています。

 

運「なんでこんなことしているの?」

僕「強くなりたいからです。」

運「でも、それには終わりはないんじゃない?」

 

それは真実でもあり、嘘でもあります。

 

人が完璧になることはないですし、強くなることに終わりはないです。無駄なあがきです。

 

でも、ぼくは「強くなりたい」という言葉しか見つからなかっただけで、そうじゃなくて心に平安がほしかったんです。

 

それはちゃんと訪れます。自分の心に目を背けなければ。だから終わりはあるんです。今、ぼくの心は平安ですから。強くなろうとなんてもはや思いません。弱くてもいいんです。

 

むしろ、それが強い心です。

 

そしてぼくは自分に自信がありませんでした。あったとしてもそれを試さないのに本心から誇ることはできませんよね。

 

学歴はあるけども、それをとっぱらったときに僕になにができるのか。

 

裸の自分の力を試したい。そして思うだけじゃなくてやってみろよと自分に厳しくといかけていました。

 

アジアを放浪したり、日本二周をヒッチハイクでしたり、そもそも人前でステージに立って歌うなんてこと自体が大変な挑戦です。

 

それを不器用ながら乗り越えた、達成したということはある程度自信になりました。

 

「え?もう十分じゃない?」とよくいろいろな人に言われましたが、でもそれでも僕の心はまだ満たされませんでした。それが満たされたのはさらに10年くらいかかったのです。

 

それについては、今回のテーマとはずれてくるのでまた違う機会で書きたいと思っています。

 

ただ、旅や音楽である程度地盤を作った、実際に事実として残したということは、周りに対しても、家族に対しても示しがつくものにはなりました。

 

だから、やりたいこともやり、心の問題としてもある程度は乗り越えることができました。

 

ぼくが同級生の披露宴で「大人にならなきゃ」と思ったのは、そのようにすでにやりたいことをやりつくしたあとでした。

 

そうでなくては「就職するぞ」と決心して覚悟を決めることはできなかったんです。

 

そして自分の問題を解決したとき、自分の心に折り合いがついたとき、人ははじめて社会や他人に目を、心を向ける余裕を持つことができるのです。その時、心は平穏になっているはずです。

 

それが大人になるということです。

 

おしまい

 

written by SEGE